坂東玉三郎の若い頃とは?美貌と演技力で魅了した伝説の役者人生を解説!

歌舞伎界を代表する名優・坂東玉三郎さんは、その圧倒的な美貌と演技力で長きにわたり観客を魅了してきました。

この記事では、坂東玉三郎さんの若き日を重点的に掘り下げていきます。

目次

坂東玉三郎の若い頃とは?

出典:CINEMA CLASSIC

歌舞伎界において「奇跡の女形」と呼ばれる五代目坂東玉三郎さん。

坂東玉三郎さんは、人間国宝として日本芸能界の頂点に立つ存在です。

その若い頃の美貌と演技力は、文豪三島由紀夫をはじめとする多くの文化人たちを魅了し続けました。

梨園の出身でもなく、小児麻痺の後遺症を抱えながらも、類い稀なる努力と天性の才能で歌舞伎界の頂点へと上り詰めた玉三郎の若き日の軌跡を詳しく解説します。

坂東玉三郎の若い頃の魅力は、単なる美貌だけでなく、困難を乗り越えた精神力と卓越した演技力にありました。

7歳で初舞台を踏み、14歳で五代目坂東玉三郎を襲名してから、17歳で三島由紀夫の新作歌舞伎『椿説弓張月』の白縫姫を演じ、その美しさと演技力で絶賛を浴びました。

特に19歳の時に演じた『桜姫東文章』での白菊丸役は、三島由紀夫に「とにかく綺麗な人がいる」「隣に座っていられない」と言わしめるほどの美貌と芸術性を兼ね備えていました。

若い頃は「絶世の美少年」と称されるほどの存在感を放ち、舞台に立つたびに観客の視線を釘付けにしました。

その姿は歌舞伎ファンのみならず、映画界や芸術界にも大きな影響を与えています。では、坂東玉三郎さんの若い頃とは一体どのようなものだったのでしょうか。

坂東玉三郎さんの若い頃は、美貌と演技力を兼ね備えた唯一無二の存在として歌舞伎界に革命を起こした時代でした。

特に女形としての完成度は高く、舞台上のしなやかな所作や気品ある表情は「生きる芸術品」と称されました。

苦難を乗り越えた幼少期から初舞台まで

坂東玉三郎(本名:楡原伸一、後に守田伸一)は1950年4月25日、東京都で生まれました。

1歳半で小児麻痺にかかり、右足アキレス腱に麻痺が残る後遺症を負いました。

この後遺症のリハビリのために始めた日本舞踊が、後の歌舞伎人生の出発点となったのです。

1957年12月、7歳の時に東横ホールで『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の小太郎役で初舞台を踏みました。

歌舞伎の世界に入る前は、大和証券ホールやイイノホールなどで踊りの発表会に出ていましたが、歌舞伎の興行で約1カ月間も毎日舞台に出られるなんて信じられませんでした。朝、目を覚まし、「今日も舞台に出られるの?」と母に尋ね、「今日も出られるよ」と言われ、子ども心に夢のようでした。

引用元:東京新聞

14歳での五代目坂東玉三郎襲名

1964年6月、14歳の時に十四代目守田勘弥の養子となり、歌舞伎座で『心中刃は氷の朔日』のおたま役ほかで五代目坂東玉三郎を襲名しました。

この時点で既に、歌舞伎界の将来を担う逸材として期待されていたのです。

若い頃から既に伝説的な役者人生を歩み始めており、その姿は今なお語り継がれています。

美貌と演技力で魅了した伝説の役者人生を解説!

出典:Discover Japam

坂東玉三郎さんは10代後半から20代にかけて、その美しさで観客を圧倒しました。

評論家の渡辺保氏も著書で「舞台に登場した瞬間、観客がため息をもらすほどの美貌であった」と語っています。

その容姿は舞台写真や映画にも記録され、若き日の坂東玉三郎像はまさに時代を超えた芸術そのものといえます。

三島由紀夫との運命的な出会い

最も注目すべきは、17歳(1967年)の時に三島由紀夫の新作歌舞伎『椿説弓張月』で白縫姫役に抜擢されたことです。

文春オンラインによると、三島は当時17歳だった玉三郎について「とにかく綺麗な人がいる」「隣に座っていられない」と語り、その美貌に驚嘆したといいます。

美貌だけでなく、演技力の高さも若い頃から群を抜いていました。

特に「阿古屋」や「鷺娘」などの女形の当たり役では、所作の美しさと繊細な感情表現が評価されています。

歌舞伎評論家の児玉竜一氏は「玉三郎は美貌に頼るだけでなく、演技そのものを革新し、女形を現代に生きる芸術へと高めた」と評しています。

美貌と演技力の頂点期

20代前半の玉三郎は、まさに美貌と演技力の頂点期を迎えていました。

美しい容姿と品格のある繊細な演技、匂い立つ色気の清らかさ。女形の歌舞伎俳優の第一人者として国内外の観客を魅了してきたが、「身に余る光栄。かえってお恥ずかしい思いも致しますし、こんなにしていただいてどうしたら良いかと思う」と謙遜する。

引用元:日本経済新聞

特に注目すべきは1970年の『鳴神』での雲絶間姫役で十代目市川海老蔵(後の十二代目市川團十郎)と組んだ「海老玉コンビ」があります。

そして1975年の『桜姫東文章』での桜姫役で片岡孝夫(現・十五代目片岡仁左衛門)と組んだ「孝玉コンビ」の人気でした。

国際的な評価と若き日の偉業

玉三郎の若い頃の実力は国内にとどまりませんでした。

1984年5月、34歳の時にはニューヨーク・メトロポリタン歌劇場100周年記念公演に招聘され、世界的な舞台で日本の伝統芸能の美を披露しました。

また、1970年代から80年代にかけて数々の賞を受賞しています。

特に1970年(20歳)での芸術選奨新人賞受賞は、その若き才能が早くから認められていたことを示しています。

三島由紀夫が見抜いた特別な才能

1967年3月の国立劇場での『桜姫東文章』での玉三郎の白菊丸役は、三島由紀夫が特に注目した演技の一つでした。

当時17歳の玉三郎は、「その古風な美貌」と「危機感を伴った抒情美」で観客を魅了し、三島をして「現代の奇跡」とまで言わしめたのです。

三島は玉三郎の美しさについて、単なる外見的な美しさではなく、古風な、気品のある美貌と表現し、その芸術的価値を高く評価していました。

これは、玉三郎が持つ生まれながらの美質と、厳しい稽古によって培われた芸術性が融合した結果だったのです。

まとめ

坂東玉三郎の若い頃の魅力は、小児麻痺の後遺症という困難を乗り越えた精神力、天性の美貌、そして絶え間ない努力によって磨かれた演技力の三位一体にありました。

特に17歳から20代前半にかけての時期は、三島由紀夫をはじめとする文化人たちから絶賛され、歌舞伎界の未来を担う逸材として期待された黄金期でした。

現在では人間国宝として日本芸能界の頂点に立つ玉三郎ですが、その原点は若き日の美貌と演技力、そして何より芸に対する真摯な姿勢にあったのです。

梨園の出身でない玉三郎が歌舞伎界の頂点に立てたのは、まさに「奇跡」と呼ぶにふさわしい軌跡だったといえるでしょう。

長い間お付き合いいただきありがとうございました。

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